アトツギの旗手たち
素人から始まった経営の道を、前向きに、適応していく力。

きたむら自動車整備工場 代表取締役 北村健太(38)

 「エンジンオイルをガソリンの給油口から入れようとして、直前で止まったくらいですから」。そう自嘲気味に事業承継した当時を振り返るくらい、素人から始まった自動車整備士や経営者の道。父の急死によって、それは突如として北村さんに降りかかった。どちらかと言えば物静かなタイプに見えるが、「面白いことが好きで、中学校のときはいたずらというか、そういうのも好きでしたね」という。自分がいる現状をどう捉え、どう動くかが大事だが、その点、北村さんは変化を厭わず、一歩を踏み出すことができる。その適応していく力が、彼を助けてきた。

自分探しの20代

JAの整備工場で働いた父が、15年前に「きたむら自動車」を創業。鹿野町で地元から頼られる整備会社として続いた。「当時は継ぐつもりなんてなかった」と話す北村さんは、鳥取西工業高校から福岡県の大学に進学。「何がしたいということはなく、仕事につながるようなものがいい」と、土木系の学部を選んだ。就職は、住み慣れた土地だからという理由で鳥取を選び、鳥取市内で土木設計の仕事を3年ほどやった。そんな具合に行き着いた生活だったが、違和感は日に日に大きくなったという。

「聞く人が聞いたら、なんだそんなことか、と言われるかもしれないんですが…。事務所にずっといて、朝も夜も、四季の移り変わりもわからなかった。もうちょっと季節感や、なんというか生きている感を感じながら仕事をしたいと思ったんです」

それに加え、「将来、何か自分でしたい」と思い始めた時期でもあったと振り返る。その「何か」はわからなかったが、環境を変えようと退職した。その後は派遣会社の仕事で製造工場で働いたり、大阪に移って「何をやるにしても、仕事は人と接するもの。人と付き合っていくことが大事ですから」と賃貸不動産の営業にチャレンジするも、心身ともにボロボロの状態に。30歳手前でUターンした。自分を探しながら、まさにどん底にいた。

余命1年の父から事業承継

運命が動き始める時は、なぜか劇的な変化が起こることが多い。北村さんの場合も、鳥取に帰るタイミングが何かの思し召しだったと思わざるを得なかった。帰省一週間後、父が病院の再検査で受けた「余命1年」という宣告。末期癌だった。

会社の仕事を手伝うことを決めたが、父親と一緒に働けたのは半年間だけ。全くの畑違いの仕事に、引き継ぎ期間とも言えないほど短すぎる時間だった。「経営というものも全くわからなかったし、僕に軸もなかった。とにかく今の状態を続けんといけんとは思いながら、ベテランの社員がいて仕事は回っていた。あの頃、何をしとったんだろう…」。ふわふわした状態が続いたが、次第に危機感が募った。「会社の数字がだんだんわかってきて、まだ親父の頃の余力があるけど、このままじゃまずいということがわかりました」

行動し、変化していく

まず現状の把握に努め、「この10年で鹿野の人口が20%減っていて、車の所有台数も減っていく。さらに自動運転やサポート機能など車も進化する。このままここでやっていくのも、遠くない未来に限界がくる」と結論を出した。そんなタイミングで、「一緒にやらないか?」と声をかけたのがタイヤ販売をしていた先輩経営者の若本さん。車両整備の事業展開も考えていて、それができるパートナーを探していたところだった。この誘いに北村さんは即座に判断を下し、本社を鹿野から移した。

「本当にいろんな人に助けてもらったり、ご縁があって今があると思うんです」。経営者となり、危機感を覚えてからは商工会など経済団体に加入し、経営のヒントやチャンスを探しに社外の交流を増やしてきたが、それが生きている。

実は、アトツギプロジェクトも移転のタイミングと重なって参加を迷ったという。「若本さんに『なんでいかんだ?』と言われ、理由としては、ただ忙しいだけかと思って。終わってみたら事業計画を立てるポイントだったり、複数人で同時にやることで多くの刺激をもらいました」と充実した顔だ。変化し、適応していくために、やるか、やらないかー。その分かれ目で積み重ねてきた前向きな行動が、今の北村さんをつくっている。

文・写真 / 藤田和俊

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